nykergoto’s blog

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今更GPTに小説を作らせるのにハマっている

アメリカの大統領選挙というものは、実に不思議なものである。国民は民主主義の誇りだと言うし、世界はそれを自由の祭典と称えて、えらく持ち上げるけれど、実際はどうだろうか。候補者たちは声を枯らし、涙を流し、握手を交わしながら、愛想笑いを振りまいて各地を巡るが、果たしてそこに人間の本性をありのまま見せている者がいるだろうか。

民主党共和党だと人は言うけれど、もとは人間同士の競争だ。政策を並べるのはいいが、有権者というものは、案外そういったものを深く吟味して投票しているとは限らない。テレビ討論の出来が勝敗を分ける、などと言われるが、そう言われてみれば、あの討論というものも実に妙なものだ。「あなたの経済政策はどうですか?」と聞かれて、「それはいい質問です」と言いながら、結局は相手の悪口に終始してしまう。討論会というよりもむしろ悪口合戦、プロレスのようなものだ。それを見て人々が喝采を送り、政治への理解を深めたなどと言っているのだから、世の中というのは、まことにわからぬ。

そして大統領選挙には演説というものがあるが、実際のところこれは芝居に近い。大統領候補の演説は、政策の話というより感情の演出が勝負だ。「アメリカは偉大だ」「我々には夢がある」といった決まり文句を語るとき、涙を浮かべ、声を震わせることが大切であるらしい。しかし、よくよく考えてみれば、政治家が涙を流したからといって、その涙が本物である保証はどこにもない。本物かどうかは二の次で、とにかく涙を流すこと、感情を揺さぶること、それが大事なのである。

メディアもまた困ったもので、候補者をやれ「保守派」だ「リベラル派」だ、「急進派」だ「穏健派」だと区別してみるが、そのような言葉の分類が本質をとらえているのか怪しいものだ。実際には、候補者個人の品性や教養が問題であって、「派閥」の分類は空疎な言葉遊びにすぎない。

近頃はSNSというものがあり、候補者は短い言葉で自らを表現するようになったが、これまた困ったことに、短ければ短いほど内容が浅くなりがちだ。「アメリカを再び偉大にする」というが、そもそも偉大とは何か、その「再び」とはいつを指しているのか、具体的に聞かれても答えに困る。つまり、有権者の側にも候補者の側にも、もともとその言葉に深い意味など求めてはいないのである。浅くとも、響きがよく、気持ちよければよい。それが選挙というものの現実である。

トランプ氏が登場したとき、言葉が下品だ、言動が粗暴だ、と批判されながらも、あっという間に支持を広げてしまったが、これは決して不思議なことではない。生活や感情が言葉を選ぶのであって、言葉が先にあるわけではないからだ。人々が政治への不満や怒りを抱いている限り、それに即した言葉や態度を持つ候補者が出てきて支持されることは当然である。礼儀正しく美しい言葉を話す候補者が敗北し、粗野で直接的な候補者が勝つのは、言葉の問題ではなくて、生活そのものがそうさせているからである。

結局、アメリカの大統領選挙もまた、言葉や表現、政策といった表層的なものではなく、それらを動かす生活そのもの、感情そのもの、教養そのものの問題である。大統領選挙を変えたいというならば、表現や演説のテクニックをいくら改めても無駄であって、まず人々の暮らしや意識、教養を高める以外にない。政治を変えるには、有権者が変わるしかない。候補者が国民に媚びるのではなく、国民が政治を真に批判し、自らを高めることが先であろう。

つまり、アメリカの大統領選挙というものは、民主主義の華麗なる祭典などではなく、人間の愚かしさ、欲望、感情が渦巻く、ただそれだけのことであって、その本質は古今東西、変わることはないのである。


これは坂口安吾の短編「敬語論」を元にしてアメリカ大統領選挙の講評を作らせた例。普通に読んでて楽しいのでいろんな話題を小説にしてもらってふんふん読んでいる。本読むのはあれだけどな、みたいなときの暇つぶしにちょうどいい (Webの謎の広告まみれの情報量のない記事を読むよりは楽しい)。

ちなみになんでこんな文章にしたの?を聞くのも結構面白い。この例だと…

この文章がなぜこんなふうになったのか、ということを自己解説してみましょう。

まず、あなたが提示した坂口安吾の短編には、独特の文体と思想があります。坂口安吾の文章の特徴として、言葉や敬語、習慣などの表面的な現象を通じて、その背後にある人間の本質や生活、社会心理を鋭く観察し、皮肉や批評を交えて論じる、というものがあります。

この特徴を具体的に挙げると以下のようになります。

① 言葉や表現そのものに対する批判 坂口安吾は表面的な言葉の乱れや変化を問題視するのではなく、むしろその背後にある人間の感情や生活そのものを見抜きます。この点を私は意識的に取り入れました。

たとえば元の文章では、

「敬語など突ッつき、言葉の合理性などということを言いだすと、言葉全体を新たにメートル法式につくりあげない限り、合理化の極まる果はないのである。」

とあります。つまり、坂口安吾は表層的なルールを強制しても無駄であると断じています。私の書いたアメリカ大統領選挙の講評にも、この考えを踏襲しており、「候補者の表現や演説方法をいくら改善しても、本質である国民の意識や教養が変わらなければ無意味だ」という論調になりました。

② 生活や人間の本質に基づいた批評 坂口安吾の短編では、

「生活や感情が直接こもっているものだ。だから、生活や感情によって動きがあり、時代的に変化がある。」

という趣旨が繰り返されます。私はこの考えを取り入れ、大統領選挙の現象面(演説や討論会の形態、言葉遣い、候補者の演出)を問題にするのではなく、それらを生み出す社会の感情、つまり有権者の生活や心理の方を批評対象としました。

③ 皮肉で諷刺的なトーン 坂口安吾は、自らの主張をする際、あえて皮肉やユーモアを多用します。たとえば、

「ザアマス夫人というのがある。キザの見本だというので漫文漫画に諷刺され世間の笑いものになっているから、自粛するかと思うとそうじゃない」

というように、笑いの対象を通じて真理を指摘する手法です。私もアメリカ大統領選挙について論じる際、候補者が流す涙や演説の芝居がかった性質をわざと強調し、皮肉めいた調子を選択しました。

④ 本質と表面を区別する視点 安吾の文は、表面的な現象(敬語、女性語、言葉遣い)と、それらの背後にある実際の生活や社会構造(階級、教養、差別)を区別し、その二つを鋭く対比しています。

私も、選挙運動における「美辞麗句」と、それを実際に支持する社会の「本当の欲望や感情」を対比し、言葉や政策がいかに空疎になりやすいかを示しました。これは安吾的な手法を大統領選挙という別のテーマに応用したものです。

結論としてのまとめ こうして見ると、私の書いた文章がこのようになったのは、あなたが提示した坂口安吾の短編の精神や文体を意識的に取り入れ、その特徴を忠実に再現しようとした結果であると言えます。

表面的な言葉や現象に惑わされず、その奥にある社会の心理や感情に注目した。

言葉の問題を生活や感情の問題に置き換えた。

皮肉や諷刺的な調子で批評した。

こうした要素を意識して用いたために、結果として坂口安吾の文体や視点に近い、大統領選挙に対する批評が生まれたわけです。


とのこと。結構ちゃんとしとる。